隣人に対する寛容さについて

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カナダから帰ってきてみて、日本とカナダここが違うなあと思うことは山ほどあるのだが、その中でも『他者に対する寛容さ』はだいぶ違うなと感じている。これは日本に戻ってきて一番窮屈だなあと思うことかもしれない。

 

以前にも書いたけど、トロントは多民族・多文化の街で、色んな人種や文化や宗教や思想、セクシャリティの人がいて、どの人たちもそれに誇りを持って生きている。そして他の人が何と言おうと、自分が自分である権利は守られるべきだ(なのでお前も許す)みたいな考え方が基本にある。自分を大切にしてもらうために相手を大切にする、自分もいつか困るかもしれないから今困っている人に手を差し伸べるという、ポジティブな互助のサイクルがあるように思う。

 

例を挙げると、電車やバスに乗っている時のベビーカー、電動カート、歩行器等への対応とか本当にすごい。優先席の座席は持ち上げて広いスペースが取れるようになっており、乗降車の時は空気で段差を少なくして、電動で出し入れできるスロープを使う。乗客はそれらに素早く協力し、お年寄りや大荷物の人が乗ってくれば自然と席を譲る。そうすることで、赤ちゃんや小さい子供のいるお母さんは安心して子供を連れて外に出られるし、お年寄りもみんな公共交通機関を使って色々なところに出かけていく。

 

 他には働いている人の自由度、笑。これは笑いごとじゃないよ、って場合もめちゃくちゃあるけど、その組織に所属している以前に「自分は自分だ」っていう意識が強い。電車のアナウンス、日本だと決まった文章や例文があってそれに倣って放送するけど、トロントの交通機関の車掌は自分の言葉で話す。だから面白いこという時もあれば「そんなこと言う!?」っていう言葉を耳にすることもある。バスの運転手が乗務中に何も言わず車止めてコーヒー買いに行っちゃったり、駅員さんがTimのコーヒー片手に同僚とおしゃべりしながら横目で対応してきたり。めちゃくちゃ態度の悪い郵便局員に多めのスタンプ代払わされそうになったり(阻止)、店員さんが友達みたいに話しかけてきてそして去って行ったり、色々。日本のように、どこでも・だれでも同じ対応、同じサービスはまず望めない。でもそれで別にどうしようもなく困ることはないし、面白いからわたしはその方が好きだ。人間が話してる訳だし。

 

街角のホームレスが、街行く人から小銭やご飯を受け取っている姿も割と目にする。わたしは日本では支援団体以外がホームレスと接しているのを見たことがない。まあこれはホームレスの多さの違いもあると思う。トロントで物乞いしている人を見ない日はなかった。老いも若きも男も女も、一様に街でTimのカップをチャリチャリ言わしていた。

 

対する日本。日本はとても平均化された国だと思う。電車に乗れば乗客の9割は日本人で、同じような体型、同じような服装、お店に行けば、どこでも・だれでも同じ対応、同じサービスをしてくれる。規範となる理想のモデルが強く信仰されていて、自分がその平均の中にいる限り、安心していられる(と思っている)。しかし一度平均から外れると、それは自己責任となり、そこに手を差し伸べようとするのは一部の人のみだ。平均の外の行くのは自己責任で、それでも権利を欲するのはお門違いだ、自分はそうならないように生きてきたのにお前はずるい、あぶれた奴が苦労するのは仕方ない、みたいな意識があるように感じる。数が多い方が正しくて優先されるべき、というか。自分は許されなかった(と思ってる)からお前も許さないぞ、みたいなネガティブな権利の奪い合いが行われて、どんどん制限を増やし、結果自分自身の自由を失っている気がする。

 

 これは長い間の島国・単一民族文化から来るものなのかな〜?と思うんだけど、日本ももうちょっと他人に寛容な社会にならんかなと思う。もちろんトロントにもよくないところはあって、いついかなる時も自分の意見を出していいと思っているからみんなすぐヤイヤイ言うし、差別的な発言・行動をする人もいる。でも始めはもっとヨソに対して当たりがきつかったと思うんだけど、なんで今こんななんでもありみたいになってるんだろう。セクシャリティについてはプライドパレードの歴史みたいなものをサラッと読んだけど、他については移民の流入で社会がいつ・どう変わっていったのか全く知らないから、その時を知る人に話を聞いてみたい。

 

まあとにかく、わたしは自分のことが大切だから相手も大切にするし、人数を笠に着て抑圧しようとしてくる人の言うことは知るかって感じだ。違いは違いで、そこに上も下もあるべきではないというのが、わたしがカナダに行ってさらに強めた信条。